「へぇ…………、今時いるんだそんな親。っていうかセレブの世界ではそれが当たり前なの?」「いえ、違う……と思いますわ。わが一族が普通じゃないだけでしょう」 施設育ちの愛美はもちろん、ごく一般的な家庭に育ったさやかにもそのセレブ独特な考え方は理解できなかった。「……で、話戻すけどさ。その男の子が何だって?」「あ、そうそう。その子のご両親ね、園長先生にお説教されて改心したはいいんだけど、今度はその子に逢いたいってちょくちょく園を訪ねてくるようになったの。自分たちで育てるのを放棄したくせに勝手でしょ? でも、ご両親のこと恨んでるその子は一度も会いたがらなかったんだけど」「だろうね」「その子今中三で、高校に進学させるためにご両親がまた無理矢理引き取りに行くんじゃないかってわたし心配で。夏休みにね、その子のことでおじさまにお願いしたの」「お願いしたって何を?」「その子が困ってたら、味方になってあげてほしいって。あと、できればその子の里親になってくれそうなご夫婦を探してみてくれませんか、って」 もう十二月。そろそろ進路が決まる頃なので、〝あしながおじさん〟から連絡が来てもいいと思うのだけれど……。 さやかも同じ気持ちだったらしく、ハッとしてこんなことを言った。「だとしたらさ、もう引き取り手決まってないとヤバいよね」「うん。おじさまか秘書の人から、そろそろ連絡来ると思うんだけど。――わたし郵便受け見るの忘れてたから、ちょっと見てくるね!」「あ、待って待って! あたしも付き合うよ」「私も一緒に参りますわ」 ――というわけで、愛美は親友二人と一緒に郵便受けの確認に行った。すると……。「――あ、手紙が来てる。おじさまの秘書さんから」「やっぱ来てたねー。どうする、ここで開けてみる?」「ううん、部屋に戻ってから開けるよ」 愛美は早く内容を確かめたくて、早足で部屋に戻ると急いで手紙を開封した。
****『相川愛美様。 あなたからお願いされておりました件で、ボスよりご伝言がございます。 〈わかば園〉の小谷涼介様の件でございますが、静岡にお住まいのご親切な夫妻に養子として迎えられたそうでございます。 そのご夫妻はボスの古くからの知り合いでございまして、長年の不妊治療の甲斐もなくお子様に恵まれなかったようです。 そこで、ボスから「養子を迎えるお気持ちはありませんか」と提案したところ快諾し、実際にお目にかかってみて引き取りをお決めになったそうでございます。 涼介様はご夫妻の計らいで、静岡県にありますサッカー強豪校へスポーツ推薦枠で進学することが決まったそうでございます。 ご報告が遅くなってしまい、申し訳ございません。きちんと決まってからお知らせした方が、愛美様も安心されるだろうとボスが申しておりましたもので。 心優しいあなたのお願いを、ボスも私も微笑ましく思っております。もうじき冬休みでございますね。どうぞ有意義にお過ごし下さいませ。 久留島 栄吉』****「――よかった……」 手紙を読み終えた愛美はホッとした。おじさまは――大好きな純也さんは、愛美の願いをちゃんと聞き入れてくれて、しかもいちばん安心できる方法で問題を解決してくれたのだ。「ホントよかったね、愛美。あんたこの子のこと心配してたんでしょ? これでやっと安心して冬休み迎えられるし、執筆にも集中できるじゃん」「執筆はともかく、冬休みはあまり安心できないかもしれませんわよ。……お誘いした私が言うのも何ですけど」 珠莉がそこまで言うのだから、辺唐院家は本当におかしな家だということだろうか。 これから書こうとしている小説の元ネタ、山崎(やまざき)豊子(とよこ)の『華麗なる一族』は文庫本を持っているけれど、読んだのがだいぶ前だったので詳しい内容までは愛美も憶えていない。「……わたし、夕食前にちょっと『華麗なる一族』の本を読み直してみる」「えっ、今から!? あれって確か相当長かったような」「うん。一度には読み切れないから、毎日少しずつ読むの」 愛美はそう言うと、自分の本棚から分厚い文庫本を引っぱり出してページをめくり始めた――。
****『拝啓、あしながおじさん。 お元気ですか? わたしは今日も元気です。 二学期の期末テストも無事終わって、わたしは今回も学年で三位になりました! 奨学生としてちゃんと勉強を頑張ってます。そして、作家としての活動も次のステップへ進もうとしてます。そのことはまた後で書きますね。 まず、おじさまにお礼を言わないと。小谷涼介君のこと、どうもありがとうございました。今日、秘書の久留島さんからお手紙が来てました。 リョウちゃんは静岡に住む優しいご夫婦に養子として迎えられて、しかも静岡のサッカー強豪校に推薦で進めるんですよね。おじさまが直接お願いしてくれたって、久留島さんからの手紙に書いてありました。 お子さんに恵まれなかったご夫婦ならきっとリョウちゃんのことを大事にして下さるだろうし、リョウちゃんも大好きなサッカーに打ち込めるし、わたしが望んだいちばん最高の形になって、わたしも嬉しいです。本当にありがとう、おじさま! さて、ここからが本題です。わたし、この度長編小説を書くことになりました! この小説は書き下ろし作品として刊行される予定です。もしかしたら短編集が先に刊行されるかもしれませんけど。 今日の午後、わたしの担当編集者さんが横浜まで来てくれて、このお話を打診してくれたんです。もちろんこれまでどおりに短編のお仕事もあって、その原稿料ももらえて、書籍が刊行されれば印税も入ります。題材もわたしに任せてもらえるそうです。 で、わたしが選んだ題材は「令和版・『華麗なる一族』」。セレブの一族で育ったけど家族や親せきと折り合いのつかない青年が、自分自身の手で自分の人生を切り開いていく、というストーリーにしようと思ってます。 このヒーロー像、誰かさんに似てると思いませんか? そう、純也さんがモデルなんです! 彼の生き方とかって、小説の題材に持って来いじゃないですか? ちょうど冬休みに珠莉ちゃんのお家でお世話になるし、純也さんも今年の冬は実家に帰るって言ってくれてるので、めくるめくセレブの世界について色々取材しようかな、って。 珠莉ちゃんも純也さんも、自分が生まれ育ったお家のこと好きじゃないみたい。ご両親の愛情を感じたことがほとんどないって言うんです。さやかちゃんはそのことを「親ガチャでハズレを引いた」って表現してます。おじさま、「親ガチャ」って言葉は知って
――そして、二学期終業式の日の午後。「さやかちゃん、治樹さんたちによろしくね。よいお年を!」「うん、ちゃんと伝えとくよ。愛美もよいお年を」「さやかさん、治樹さんに連絡を下さるようお伝え下さいな」「分かった。それも伝えとくから。っていうか珠莉、自分で伝えなよー」 双葉寮のエントランスで、愛美と珠莉はさやかと別れた。さやかは電車で埼玉の実家に帰るけれど、二人には珠莉の実家から迎えの車が来ることになっているのだ。「――あ、辺唐院さん。お迎えが来たみたいよ」 寮母の晴美さんが、玄関前に停まった一台の高級リムジンに気がついて珠莉に声をかけた。「あら、ホント。じゃあ愛美さん、行きましょうね」「うん」 運転席から降りてきたのは五十代~六十代くらいの穏やかそうな男の人で、珠莉の姿を認めると深々と彼女に頭を下げた。「――珠莉お嬢様、旦那様と奥様のお言いつけどおりお迎えに上がりました。……そちらのお嬢さんは?」「ありがとう、平(ひら)泉(いずみ)。彼女は相川愛美さん。私のお友達よ」「お嬢様のお友達でございましたか。これは失礼を致しました。わたくしは辺唐院家の執事兼運転手の平泉でございます。ささ、どうぞ後部座席にお乗り下さいませ」「あ……、ありがとうございます。失礼します」 愛美はちょっと緊張しながら、珠莉は悠然と車に乗り込んだ。(わぁ……、すごく豪華な車。施設で空想してたリムジンの中ってこんな風になってたんだ) 広々とした車内、ゆったりとした対面式のフカフカのシートは座り心地もバツグン。 あの頃空想して楽しんでいた「リムジンに乗るお嬢様」が、今目の前にいる珠莉と重なって見える。「……どうしましたの? 愛美さん」 まじまじと物珍しく眺めていたら、珠莉と目が合ってしまった。首を傾げられて、愛美はちょっと気まずくなった。「あ、ううん。施設にいた頃にね、ちょうど今みたいな状況を空想して遊んでたなぁって。珠莉ちゃん見てて思い出したの」
「あら、そうでしたの。愛美さんの空想好きは昔からでしたのね。ホント、作家になるために生まれてきたような人ね、あなたは」「珠莉ちゃん……、それって褒めてる? 貶(けな)してる?」 珠莉のコメントはどちらとも取れる言い方だったため、愛美は念のため確かめた。「もちろん褒めてるのよ。私は感心してるの。周りの意見に振り回されることなく自分のやりたいことに真っ直ぐなあなたが羨ましいのよ、私は」「珠莉ちゃん……。ねえ、お父さんとお母さんにモデルになる夢の話してなかったんだよね?」「ええ。話したところでどうせ反対されるのが目に見えてますもの」「そっか。じゃあこの際、純也さんがいる前で話してみるのは? わたしからも彼にお願いしてみるから。珠莉ちゃんの味方してくれるように」 愛美はここぞとばかりに珠莉を勇気づけた。〝あしながおじさん〟として愛美の夢を応援し、色々と尽力してくれている彼だ。多少なりとも自分の血を分けた姪の夢のためにも色々と根回しやバックアップをしてくれると思う。「純也叔父さまねぇ……。そりゃあ、叔父さまが味方について下されば私も心強いですけれど」「きっと大丈夫! 純也さんは夢のために努力してる人を絶対に見捨てないもん。わたしとかリョウちゃんの時みたいに」 心配そうに眉をひそめた珠莉の背中を、愛美は優しくポンポン叩いた。いつもはキリッとしていて自信満々に見える彼女も、こういう時は小さく弱々しく見える。「…………まぁ、お父さまはそれで折れて下さるかもしれないけれど。問題はお母さまの方なのよ。あとお祖母さまも。あの人たちは世間体と見栄だけで生きているようなところがあるから。『モデルになりたいなんて体(てい)裁(さい)が悪い』とか言われそうだわ」「体裁とか、そんなこと関係ないよね。珠莉ちゃんのお母さんって、そもそも我が子に関心なさそう。純也さんも言ってたけど」 千藤農園で一緒に過ごした夏休み、彼も自分の母親――珠莉の祖母だ――のことを同じように言っていて、愛美はすごく心を痛めたのだった。「純也叔父さまも……? そうね、お母さまとお祖母さまは似た者同士だったから、お祖母さまに気に入られたのかもしれないわ。お祖母さまが望まれるままにお父さまと結婚して、私を産んだ。でも私が女の子だったから、関心を無くされたのね。……結局、私も祖母や両親の望み通り、婿を迎え
「『自分の人生』……ね。そうかもしれないわ。たとえ親でも、個人の夢を理不尽に奪っていいはずがないもの。家のために自分のやりたいことを犠牲にするなんて、今の時代ナンセンスよね。――その園長先生、とてもいいことおっしゃったわ」「でしょ? その言葉にわたしもすごく勇気づけられたの。だから、純也さんに相談してみよう? わたしも一緒にお願いしてあげるから」「ええ、そうするわ。ありがとう、愛美さん。私、あなたを見直しましたわ」「うん、一緒に頑張ろ! ……でも珠莉ちゃん、『見直した』はないんじゃない? わたし今までどんな人だと思われてたの?」「あら失礼! 今のは失言でしたわね、ホホホホ」 憎まれ口が飛び出すあたり、珠莉はすっかり普段の彼女に戻ったようで、愛美はちょっとだけムッとしたけれど安心した。(よかった、この調子なら大丈夫そう)「――あのですね、珠莉お嬢様。先ほどのお話ですが」「なぁに、平泉?」 これまで運転に専念していた執事が、二人の会話に割り込んできた。「わたくしも純也坊っちゃまと同じく、珠莉お嬢様の味方でございますから。……旦那様と奥さまの手前、表立っては申し上げられませんが、そのことはぜひ憶えておいて頂きたく、僭越ながら口を挟ませて頂きました」「平泉、あなた……」 珠莉は目を丸くした。この執事もきっと両親に従順だから、彼らと同じく夢を反対しているのだと思っていたので、今の発言が意外だったからだろう。「平泉さん、いつも珠莉ちゃんのご両親の前では〝すん〟としてるんだよ。ホントは珠莉ちゃんの背中を押してあげたいのに、健気だよねー」 施設で育ち、自分の家がない愛美には使用人の苦労というものが想像できないけれど。小説家になった今、想像力を働かせることはできる。「〝すん〟っていうのはよく分らないけど……。つまり、本心を隠していたということね。あなたも苦労しているのねぇ……。知らなかったわ」「お気遣い、恐縮でございます。お嬢様はよいご友人に出会われましたね。高校にご入学される前よりお優しくなられました。――相川様、でございましたか」「あ、愛美でいいですよ、平泉さん」「では愛美様。先ほどの園長先生……でしたかのお言葉、わたくしも大変感服致しました。お嬢様のお話によれば、愛美様は施設のご出身であったことに少々コンプレックスを感じておられたとか。です
「ええ、すごくいいところです。園長先生も他の先生たちも、わたしたちのことを大事にして下さって。ただ優しいだけじゃなくて、社会に出てから困らないようにって、色んなこと教えて下さいました。ゴハンも美味しかったし、イベントごとも多かったし」「さようでございますか。きっとその施設の方たちは、園に暮らす子供たちを心から愛しておられるのでしょうね。旦那様と奥様にも見習って頂きとうございます」 彼の最後の言葉には、愛美にも分かるほどの怒りの感情が込められている。使用人にまでこんな言い方をされる辺唐院家ってどうなんだろう?「……ねえ珠莉ちゃん、もしかして珠莉ちゃんのお父さんとお母さんって夫婦仲悪かったりする?」「ええ。元々二人は政略結婚で、愛情なんてなかったの。だから夫婦なのに、お互いのことに興味がないのよ。私のあとに子供をつくらなかったのがその証拠ね。お母さまは私を産んだことで、ご自分の務めは終わったと思われたのよ」「へぇ…………」 それなのに、生まれたのは娘だった。元々義務だけで結婚した夫婦だから、跡継ぎにならない子(少なくとも辺唐院家では)には愛情を注げないのだ。「なんか……、やっぱり珠莉ちゃんのお家って変だよね。時代錯誤っていうか」「愛美さんもそう思うわよね。戦前じゃあるまいし、って」 愛美は珠莉の話を聞いていたら、これってホントに令和の話? と首を傾げたくなる。彼女の家だけ昭和――それも第二次大戦前で時間が止まっているような感じだ。「うん。だからこそ、余計に純也さんがリアルな今の時代の人だって思えるんだよね」「純也坊っちゃまは独自の価値観や考えをお持ちの方でございますから。当家では『それがおかしい』と思われておりますが、わたくしは坊っちゃまの考え方こそ今の時代にふさわしいと存じております。お嬢様方が先ほどおっしゃいましたように、純也坊っちゃまを『おかしい』と思われる旦那様や奥様、大奥様の方がおかしいのでございます。……や、これは失礼を! このことは他言無用に願います」「分かりました。わたしたちの胸の中だけに収めておきます。ね、珠莉ちゃん」 「ええ。あなたの名誉と、純也叔父さまのお立場のためにも、このことは私たち三人だけの秘密ということにしておきましょう」 愛美・珠莉・平泉さんの三人は、この場で紳士協定を結んだ。 ――リムジンは首都高速に乗り
「そうなんだ。純也さん、何だかんだで面倒見いいもんね。わたしも『連れてって』ってお願いしたら連れて行ってくれるかな」「あなたのお願いなら、純也叔父さまは何でも聞いてくれそうね。だってあなたは、叔父さまにとって特別な人だもの」「……そうかな?」「お嬢様、今のお言葉はどのような意味でございますか?」 平泉さんが首を突っ込んできたので、愛美と珠莉は顔を見合わせた。果たして、愛美と純也さんが恋人同士だという事実を彼に打ち明けていいものか――。「……あのね、平泉。愛美さんと純也叔父さまは……その」「わたし、夏から純也さんとお付き合いしてるんです。でも、他の人には言わないで下さいね?」「もちろんでございます、愛美様。わたくし、口は堅(か)とうございますので」「よかった……」 愛美はホッと胸を撫で下ろした。 まだ自分が辺唐院家の、純也さんと珠莉を除いた人々からどう見られるかも分からないのに、そのうえ純也さんの恋人だと知られたら……。 施設出身というだけで偏見に満ちた目で見られそうなのに、純也さんに財産目当てで近づいた他の女性たちと同じように思われたくない。自分は決してそうではないというプライドがあるから。「わたし、純也さんから聞いてます。彼が今までお付き合いしてた女性たちはみなさん、打算で彼に近づいた人ばっかりだったって。でも、わたしは違います。わたしは純也さんというひとりの男性を、心から好きになったんです」「さようでこざいますか。愛美様は純也坊っちゃまと……。坊っちゃまは女性を見る目がおありのようで、わたくしも安心致しました」「愛美さん、よかったわねぇ。純也叔父さまに見初められた女性で、この平泉のおメガネに叶ったのはあなたが初めてなのよ」「えっ、そうなの?」「ええ。平泉は我が家の使用人の中でもっとも古株でね、おじいさまの代から辺唐院家に仕えてくれているのよ。いざとなったらおばあさまや両親にガツンと言えるのは、この平泉くらいだわ。だから、味方についてくれたことは大きいわよ」「へぇ……、そうなんだ」 ここへ来て、愛美と純也さんの恋愛に心強い味方ができた。「――お嬢様、愛美様。間もなくお屋敷に到着致します」 リムジンはいつの間にか、高級住宅地である白金台(しろかねだい)を走っていた。周りには豪邸がズラリと建ち並んでいる。「うわー……、大きな
* * * * というわけで、卒業式前の連休――というか厳密に言えば自由登校期間だけれど――の初日、二泊三日分の荷物を携えた愛美とさやかはJR長野駅の前に立っていた。「――愛美、あたしの分まで交通費全額出してもらっちゃって悪いね。でもよかったの?」「いいのいいの! わたし今、口座に大金入ってるから。ひとりじゃ使いきれないし、使い道も分かんないし」 冬休みに突然舞い込んできた二百万円というお金は、まだギリギリ高校生でしかも施設育ちの愛美にとってはとんでもない大金だった。作家として原稿料も振り込まれてくるけれど、さすがに百万円単位はケタが違う。印税でも入ってこない限り、そんな金額は目にすることがないと思っていた。「そっか、ありがとね」 多分、さやかもそんな大金はあまり見ないんじゃないだろうか。 そして、愛美に自分の分まで交通費を負担してもらったことを申し訳なく感じているだろうから、後で「立て替えてもらった分、返すよ」と言ってくるに違いない。その分を受け取るべきかどうか、愛美は迷っていた。 さやかの顔を立てるなら、素直に受け取るべきだろうけれど。愛美としては貸しにしているつもりはないので、返してもらうのも何か違う気がしているのだ。 それはきっと、もっと大きな金額を愛美に投資してくれている〝あしながおじさん〟=純也さんも同じなんだろうと愛美は思うのだけれど……。「――農園主の善三さんの車、もうすぐこっちに来るって。奥さんの多恵さんからメッセージ来てるよ」「そっか」 スマホに届いたメッセージを見せた愛美にさやかが頷いていると、二人の目の前に千藤農園の白いミニバンが停まった。助手席から多恵さんが降りてくる。「愛美ちゃん、お待たせしちゃってごめんなさいねぇ。――あら、そちらが電話で言ってたお友だちね?」「はい。牧村さやかちゃんです」「初めまして。愛美の大親友の牧村さやかです。今日から三日間、お世話になります」 さやかが礼儀正しく挨拶をすると、多恵さんはニコニコ笑いながら「こちらこそよろしく」と挨拶を返してくれた。「静かな場所で過ごしたくて、ここに来たいって言ったそうだけど、ウチもまあまあ賑やかよ。だからあまり落ち着かないかもしれないわねぇ」「いえいえ! 寮の食堂に比べたら全然静かだと思います。ね、愛美?」「うん、そうだね。多恵さん、ウ
――今年の学年末テストもバレンタインデーも終わり、卒業式が間近に迫った三月初旬。さやかが思いがけないことを愛美に言った。「卒業式前の連休、あたしも一緒に長野の千藤農園に行きたいな。愛美、執筆の息抜きに行きたいって言ってたじゃん」「えっ、わたしは別に構わないけど……。さやかちゃん、急にどうしたの?」 部屋の勉強スペースで執筆をしていた愛美は、キーボードを叩いていた手を止めて小首を傾げた。彼女が「千藤農園へ行きたい」なんて言ったことは今まで一度もなかったから。「いやぁ、愛美がいいところだって言ってたし、あたしも前から一度は行ってみたいと思ってたんだよね。純也さんのお母さん代わりだったっていう人にも会ってみたかったしさ。っていうかぶっちゃけ、最近食堂がうるさくてストレスなんだわ」「あー……、確かに。会話もままならない感じだもんね」 さやかも言ったとおり、最近〈双葉寮〉の食堂では特に夕食の時間、みんなが一斉におしゃべりをする声が大きくこだましてやかましいくらいである。隣り同士や向かい合って座っていても、話す時には手でメガホンを作って「おーい!」とやらなければ聞こえないのだ。そりゃあストレスにもなるだろう。「分かった、わたしから連絡取ってみるよ。この時期だと……、農園では夏野菜の苗を植え始めたりとかでちょっとずつ忙しくなるだろうから、一緒にお手伝いしようね。あと、純也さんと二人で行った場所とかも案内してあげる」「やった、ありがと! 野菜育てるお手伝いなら、ウチもおばあちゃんが家庭菜園やってるからあたしもよくやってたよ。じゃあ、連絡よろしくね」「うん」 愛美のスマホには、千藤農園の電話番号はもちろん多恵さんの携帯電話の番号も登録してある。愛美から連絡したら、多恵さんはびっくりしながらも喜んでくれるだろう。ましてや、今回は一人ではなく友だちも一人連れていくんだと言ったら、大喜びで歓迎してくれるだろう。「じゃあ、原稿がキリのいいところまで書けたら、さっそく多恵さんに電話してみよう」 という言葉どおり、愛美は執筆がひと段落ついたところで多恵さんの携帯に電話した。
* * * * 部活も引退したことで執筆時間を確保できるようになった愛美は、本格的に新作の執筆に取りかかることができるようになった。「――愛美、まだ書くの? あたしたち先に寝るよー」 〝十時消灯〟という寮の規則が廃止されたので、入浴後に勉強スペースの机にかじりついて一心不乱にノートパソコンのキーボードを叩き続けていた愛美に、さやかがあくび交じりに声をかけた。横では珠莉があくびを噛み殺している。「うん、もうちょっとだけ。電気はわたしが消しとくから、二人は先に寝てて」 本当に書きたいものを書く時、作家の筆は信じられないくらい乗るらしい。愛美もまさにそんな状態だった。「分かった。でも、明日も学校あるんだからあんまり夜ふかししないようにね。じゃあおやすみー」「夜ふかしは美容によろしくなくてよ。それじゃ、おやすみなさい」 親友らしく、気遣う口調で愛美に釘を刺してから、さやかと珠莉はそれぞれ寝室へ引っ込んでいった。「うん、おやすみ。――さて、今晩はあともうひと頑張り」 愛美は再びパソコンの画面に向き直り、タイピングを再開した。それから三十分ほど執筆を続け、キリのいいところまで書き終えたところで、タイピングの手を止めた。「……よし、今日はここまでで終わり。わたしも寝よう……」 勉強部屋の灯りを消し、寝室へスマホを持ち込んだ愛美は純也さんにメッセージを送った。 『部活も引退したので、今日からガッツリ新作の執筆始めました。 今度こそ、わたしの渾身の一作! 出版されたらぜひ純也さんにも読んでほしいです。 じゃあ、おやすみなさい』 送信するとすぐに既読がついて、返信が来た。『執筆ごくろうさま。 君の渾身の一作、俺もぜひ読んでみたいな。楽しみに待ってるよ。 でも、まだ学校の勉強もあるし、無理はしないように。 愛美ちゃん、おやすみ』「……純也さん、これって保護者としてのコメント? それとも恋人としてわたしのこと心配してくれてるの?」 愛美は思わずひとり首を傾げたけれど、どちらにしても、彼が愛美のことを気にかけてくれていることに違いはないので、「まあ、どっちでもいいや」と独りごちたのだった。 高校卒業まであと約二ヶ月。その間に、この小説の執筆はどこまで進められるだろう――?
――そして、高校生活最後の学期となる三学期が始まった。「――はい。じゃあ、今年度の短編小説コンテスト、大賞は二年生の村(むら)瀬(せ)あゆみさんの作品に決定ということで。以上で選考会を終わります。みんな、お疲れさまでした」 愛美は部長として、またこのコンテストの選考委員長として、ホワイトボードに書かれた最終候補作品のタイトルの横に赤の水性マーカーで丸印をつけてから言った。 (これでわたしも引退か……) 二年前にこのコンテストで大賞をもらい、当時の部長にスカウトされて二年生に親友してから入部したこの文芸部で、愛美はこの一年間部長を務めることになった。でも、プロの作家になれたのも、あの大賞受賞があってこそだと今なら思える。この部にはいい思い出しか残っていない。 ……と、愛美がしみじみ感慨にふけっていると――。「愛美先輩、今日まで部長、お疲れさまでした!」 労(ねぎら)いの言葉と共に、二年生の和田原絵梨奈から大きな花束が差し出された。見れば、他の三年生の部員たちもそれぞれ後輩から花束を受け取っている。 これはサプライズの引退セレモニーなんだと、愛美はそれでやっと気がついた。「わぁ、キレイなお花……。ありがとう、絵梨奈ちゃん! みんなも!」「愛美先輩とは同じ日に入部しましたけど、先輩は私にいつも親切にして下さいましたよね。だから、今度は私が愛美先輩みたいに後輩のみんなに親切にしていこうと思います。部長として」「えっ? ホントに絵梨奈ちゃん、わたしの後任で部長やってくれるの?」 いちばん親しくしていた後輩からの部長就任宣言に、愛美の声は思わず上ずった。「はい。ただ、正直私自身も務まる自信ありませんし、頼りないかもしれないので……。大学に上がってからも、時々先輩からアドバイスを頂いてもいいですか?」「もちろんだよ。わたしも部長就任を引き受けた時は『わたしに務まるのかな』ってあんまり自信なくて、後藤先輩とか、その前の北原部長に相談しながらどうにかやってきたの。だから絵梨奈ちゃんも、いつでも相談しに来てね。大歓迎だから」 「ホントですか!? ありがとうございます! でもいいのかなぁ? 愛美先輩はプロの作家先生だから、執筆のお仕事もあるでしょう?」「大丈夫だよ。むしろ、執筆にかかりっきりになる方が息が詰まりそうだから。絵梨奈ちゃんとおしゃべりして
それはともかく、わたしは園長先生から両親のお墓の場所を教えてもらって、クリスマス会の翌日、園長先生と二人でお墓参りに行ってきました。〈わかば園〉で聡美園長先生たちによくして頂いたこと、そのおかげで今横浜の全寮制の女子校に通ってること、そしてプロの作家になれたことを天国にいる両親にやっと報告できて、すごく嬉しかったです。 園長先生はさっそくわたしが寄付したお金を役立てて下さって、今年のクリスマス会のごちそうとケーキをグレードアップさせて下さいました。おかげで園の弟妹たちは大喜びしてくれました。まあ、ここのゴハンだって元々そんなにお粗末じゃなかったですけどね。 そしておじさま、今年もこの施設の子供たちのためにクリスマスプレゼントをドッサリ用意して下さってありがとう。もちろん、おじさまだけがお金を出して下さったわけじゃないでしょうけど。名前は出さなくても、わたしにはちゃんと分かってますから。 お正月には、施設のみんなで近くにある小さな神社へ初詣に行ってきました。やっぱりおみくじはなかったけど……。 もうすぐ三学期が始まるので、また寮に帰らないといけないのが名残惜しいです。やっぱり〈わかば園〉はわたしにとって実家でした。三年近く離れて戻ってきたら、ここで暮らしてた頃より居心地よく感じました。 三学期が始まったら、文芸部の短編小説コンテストの選考作業をもって文芸部部長も引退。そして卒業の日を待つのみです。わたしはその間に、〈わかば園〉を舞台にした新作の執筆に入ります。今度こそ出版まで漕ぎつけられるよう、そしておじさまやみんなにに読んでもらえるよう頑張って書きます! ここにいる間にもうプロットはでき上って、担当編集者さんにもメールでOKをもらってます。 では、残り少ない高校生活を楽しく有意義に過ごそうと思います。 かしこ一月六日 愛美』****
****『拝啓、あしながおじさん。 新年あけましておめでとうございます。おじさまはこの年末年始、どんなふうに過ごしてましたか? わたしは今年の冬休み、予定どおり山梨の〈わかば園〉で過ごしてます。新作の取材もしつつ、弟妹たちと一緒に遊んだり、勉強を見てあげたり。 施設にはリョウちゃん(今は藤(ふじ)井(い)涼介くん)も帰ってきてます。新しいお家に引き取られてからも、夏休みと冬休みには帰ってきてるんだそうです。向こうのご両親が「いいよ」って言ってくれてるらしくて。ホント、いい人たちに引き取ってもらえたなぁって思います。おじさま、ありがとう! お願いしててよかった! リョウちゃんは今、静岡のサッカーの強豪高校に通ってて、三年前よりサッカーの腕前もかなり上達してました。体つきも逞しくなってるけど、あの無邪気な笑顔は全然変わってなかった。「やっぱりリョウちゃんだ!」ってわたしも懐かしくなりました。 そして、わたしが今回いちばん知りたかったこと――両親がどうして死んでしまったのかも、聡美園長先生から話を聞かせてもらえました。 わたしの両親は十六年前の十二月、航空機の墜落事故で犠牲になってたんです。で、両親は事故が起きる二日前に、小学校時代の恩師だった聡美園長にまだ幼かったわたしを預けたらしいんです。親戚の法事に、どうしてもわたしを連れていけないから、って。でも、それが最後になっちゃったそうで……。 幸いにも両親の遺体は状態がよかったから、園長先生が身元
「わたしが作家になれたのも、その人のおかげなんだよ。だから、わたしも感謝してるの」「そっか。うん、めちゃめちゃいい人だよな。で、姉ちゃん。さっき言ってた『新作のための取材』ってどういうこと?」「あのね、新作はここを舞台にして書くつもりなの。ここにいた頃のわたしを主人公のモデルにして。……この施設がわたしの、作家としての原点だと思ってるから」 もし両親が生きていて、この施設で暮らすことがなかったとしたら、愛美は果たして「作家になりたい」という夢を抱いていただろうか……? そう思うと、やっぱり愛美の作家としての原点はここなのだと愛美は思うのだった。「オレも久しぶりに愛美姉ちゃんと過ごせて嬉しいよ。静岡に行って、高校に上がってから夏休みにもここに帰ってきてたけど、姉ちゃんがいないと淋しかったからさ。また一緒にサッカーの練習、付き合ってよ」「いいよ。でもリョウちゃん、サッカー上手くなってるからついて行けるかな……」 三年近く会っていない間に、彼のサッカーはグンと上達している。サッカーの強豪校に進学させてもらったからでもあると思うけれど、今の涼介に愛美はついて行けるかちょっと不安だ。「大丈夫だよ、一緒にボールを追いかけられるだけでオレは楽しいから」「そっか」 いちばん年齢の近かった涼介と再会できただけで、愛美はここを離れていた三年間という時間がまた巻き戻ったような気持ちになった。 * * * * その夜、〈わかば園〉では施設を卒業した愛美と涼介も参加してのクリスマス会が行われた。 今年のクリスマス会は、早速愛美が寄付したお金も使われたのか例年に増してケーキもごちそうも豪華になっていて、子供たちも大喜びだった。 そして、例年どおり〝あしながおじさん〟=田中太郎氏=純也さんを含む理事会から子供たちへのクリスマスプレゼントもどっさり用意されていて、「そうそう、これがここのクリスマスだったなぁ」と懐かしくなった。
* * * * 愛美は宿舎へ向かう前に、庭の方を通りかかった。サッカー少年の涼介が、今日もここでサッカーの練習をしているような気が下から。 今もこの施設に暮らす男の子たちに混ざって、高校生くらいの少年が一人、サッカーボールを追いかけながら走っている。愛美は彼の顔に、自分がよく知っている少年の面影を見た。「――あっ、やっぱりいた! お~い、リョウちゃーん!」 手を振りながら呼びかけると、驚きながらも手を振り返してくれた少年――小谷涼介は、身長が少し伸びて筋肉もついているけれど、顔は三年前とほとんど変わっていない。「愛美姉ちゃん! 久しぶり……っていうかなんでここに? ――あ、ちょっとごめん! お前ら、今日の練習はここまで。もうすぐ晩メシだから、ちゃんと手洗えよ!」 子供たちのコーチをしていたらしい涼介は、泥まみれになっている彼らに練習の終了を告げた。三年近くここに帰ってこない間に、彼もすっかり〝お兄さん〟になっていた。「リョウちゃん、元気そうだね。わたしもね、今年の冬休みの間はここで過ごすことにしたんだよ。新作のための取材も兼ねてるんだけど」「そっか。そういや愛美姉ちゃん、作家になったんだよな。おめでと。オレも本買ったよ。義父(とう)さんも義母(かあ)さんも、『この本は施設にいた頃のお姉ちゃんが書いたんだ』ってオレが言ったら二人とも買ってくれてさ。ウチにはあの本が三冊もあるんだぜ」「そうなんだ? リョウちゃん、すっかり新しいお家に馴染んでるみたいだね。よかった」 自分が〝あしながおじさん〟=純也さんにお願いして見つけてもらった涼介の養父母。彼がその家に馴染んでいるか、愛美はずっと心配だったけれど、彼の口ぶりからしてすっかり気に入っているようでホッとした。「うん。二人とも、オレにすごくよくしてくれてるよ。園長先生から聞いたんだけど、愛美姉ちゃんが理事の人に頼み込んで見つけてくれたんだよな? 姉ちゃん、ありがとな」「ううん、わたしはただお願いしただけで、実際に動いてくれたのはその理事の人だよ。わたしの時にも手を差し伸べてくれたから、リョウちゃんのことも何とかしてくれるかな……と思ってダメもとでお願いしたら、ちゃんとしてくれて。ホント、いい人でしょ?」 彼はお金を出してくれて終わりではなく、常に相手にとって最善の方法を見つけてくれる。 愛
愛美の答えを聞いた園長は、困ったような笑みを浮かべた。「……実はね、愛美ちゃん。辺唐院さんも今月の第一水曜日にここへいらした時、私におっしゃってたのよ。『どうやら彼女は、僕の正体に気づいているみたいです』って。あなたは頭のいい子だから、いずれはこうなると思ってらっしゃったみたいで。もしかしたら、あなたに本当のことを打ち明けるタイミングを計りかねている感じだったわ」「そう……なんですか? だとしたら、彼はいつごろわたしに打ち明けてくれるつもりなんだろう……?」 彼がタイミングを計っていることは間違いないだろうけれど。打ち明けると愛美と気まずくなるのを恐れて、なかなか打ち明けられないというのもあるのかもしれない。「――とにかく、今日から二週間はあなたも実家に帰ってきたつもりで、ここでお過ごしなさい。ちゃんと取材には応じてあげるから。あとは子供たちの相手をしてくれたり、事務作業を手伝ってくれると助かるけれど。それはあくまであなたの意思に任せるわね」「はい」「あなたはまた六号室で寝泊まりしてもらおうかしらね。みんな、愛美お姉ちゃんと一緒に寝るのを楽しみにしてるから」「分かりました。六号室かぁ……、懐かしいなぁ」 愛美はここを巣立っていくまでずっと、六号室で五人の幼い弟妹たちと過ごしていたのだ。あれから三年近く経って、あの子たちも大きくなったことだろう。幼稚園の年長組だった子も、小学三年生になっているはずだ。「あ、あとね、涼介君も今、施設に帰ってきてるのよ。引き取られた先のご両親が、夏休みと冬休みにはここに帰ってきてもいいっておっしゃったらしくて」「えっ、リョウちゃんも? 嬉しいな」「ええ。今夜はクリスマス会をやるから、愛美ちゃんも参加してね。涼介君も参加したいって言ってたから。お正月にはみんなでまた近くの神社へ初詣に行きましょうね」「はい!」 まるで自分の祖母のような園長とのやり取りで、愛美はあっという間に三年前に引き戻されたような懐かしい気持ちになった。このアットホームな雰囲気が、この園での生活が楽しいと感じたいちばんの理由だった。「――そういえば、その服の感じも懐かしいわね。愛美ちゃん、ここにいた頃もよくブルーのギンガムチェックの服を着てた憶えがあるわ」 園長はふと、愛美が着ているブルーのギンガムチェックのシャツを眺めて目を細める。ボト